「MEDプレゼン2018@仙台」での岩崎航のスピーチを掲載します

「顔を上げて生きる。 暮らしをつくる。 伴走者とともに」 岩崎航

私は全身の筋肉が正常に作られず体が動かせなくなる難病「筋ジストロフィー」を抱えながら生きています。3歳頃の発症から徐々に病状が進んで、42歳の今は、常に人工呼吸器を使って、食事は胃ろうから栄養を入れて、24時間、生活動作の全てに介助を得ながら暮らしています。岩崎航というペンネームで、詩やエッセイなどの著述を仕事にしています。

一昨年の9月、私は仙台市に終日24時間の訪問介護支給を求めました。
理由は、今まで長年、私の介助を担っていた両親が高齢による衰えと、持病の悪化で介助ができない状況になっていたからです。しかし、当初は認められませんでした。

私にとって、介助を得ることは生きるための前提であり、自分の生き方を自分の意思で決める主体性を守ることでもあります。
他の地域でも、生きるために必要な公的介護を求めても支給認定がされず、命や健康の危険すら感じながら苦しい生活を送っている障害者とその家族がたくさんいます。本来、格差があってはいけないのに、住んでいる市町村によって、制度が充分に機能していない課題があるのです。

細かい経緯は略しますが、その後、担当の相談支援者のはたらきや、主治医の丹念な病状説明、障害者の介護保障を支援する弁護士らの助力も得て、諦めずに交渉を重ねた結果、仙台市の対応が改められて、昨年の3月に24時間介護支給の決定を得ることができました。
1人では諦めていただろう険しい山も、ともに力を合わせてくれる伴走者がいれば、越えられることを知りました。

ほぼ24時間、担当ヘルパーが交代で訪問する体制が整った半年後、昨年10月にひどい風邪をひいたことがありました。その時は、痰を自力で出すことが難しく苦しい思いをしました。痰が詰まって「窒息するのではないか」という不安は、死を感じさせる恐ろしい経験でした。真夜中に、病状報告で在宅医に電話した時「辛くなったらいつでも呼ぶんだよ」と言われたことは、薬のように思えました。

風邪が治まってきたころ、今後、気管切開して痰を取りやすくすることも考えました。
これまで徐々に病状が進み、できることを多く失ってきました。また今回もこの現実を早く受けとめなければならない。気管切開しか自分には生きる道はないと思い込んでいたように思います。

気管切開して呼吸器を使うことには、痰吸引が頻繁になること、声が出なくなる可能性があるなど、QOLに影響をもたらすデメリットもあります。同じ病気で気管切開して22年になる、声を出せなくなった兄から長文のメールで「後で後悔しない決断をして欲しい」と送ってくれた助言にも支えられて、その後、気管切開を避けて生きる道を考え始めました。
そして、私のように唾液や水分が飲み込める喉の力がある場合は、器械の力で痰を出すカフアシストを使ったり、呼吸リハビリによって胸郭をやわらかく保つケアを継続していけば、今まで通り、鼻マスクで呼吸器を使い暮らしていけることを知りました。

今後の自分の一生が左右される決断です。現時点で最良と思われる医療を受けたいと思いました。北海道にある国立八雲病院で、筋ジストロフィー患者の療養の分野で先進的な専門医療と生活支援技術を提供していること、全国からアクティブな暮らしを望む障害者が通院しているという事実も知って、昨年12月、呼吸リハビリのために短期入院をすることにしました。

仙台から北海道までの移動は、新幹線が利用できます。
私は椅子に座れないため、手押しの寝台車を使っています。
駅の事務室に行き、私の寝台車で乗車ができるかを駅員さんと確認を重ねました。充分乗車が可能だということで、切符を発券してもらい安心していたところ、急にJRの支社から乗車はできませんと断られてしまいました。私の寝台車が規定の車いすサイズより大きいというのが理由でしたが、その後、社内での行き違いが分かり、一転、乗車できることになりました。

JR東日本では、規定のサイズに合わない場合でも、『特段の事情』があるときは、個別に検討をして、運行の安全を妨げないかぎり乗車ができるように取り扱う方針があるそうです。一口に「障害者」と言ってもその障害の内容は千差万別です。標準的な車いすが使えない体の人もいます。
私は医療目的というのが『特段の事情』に該当しましたが、これは障害を持つ人にとって大きな障壁ではないでしょうか。長距離移動の手段として、新幹線は生活になじんだ交通機関です。たとえば、旅行で遊びに行く、家族や友だちに会いに行く、仕事で出張するなど、健常者であれば当たり前のように使える手段に、特定の障害者は、利用目的を問われる形で、アクセスを制限されてしまうからです。

生活者として当たり前のことをして生きたいだけなのに、その前提となる介助を得ることにも、そこから日常において行動的なことをしようとするにも壁が立ちふさがります。法律家の力を借りたり、政治家に陳情をしてまで、何度も強い声を上げないとその壁を越えられないというのは、どういうことなのでしょうか。

障害や難病を持って生きる人やその家族は、自分の目の前の一日一日を生きるだけでも精一杯であることが多いです。ただでさえ余裕がない中で、行政や社会に対して折れずに強く声を出していくこと、何度も交渉をしていくのは困難です。声を出したくても出せないでいる人もたくさんいると思います。
たまたまの偶然で声を上げやすい環境にいた人、熱意のある支援者に出会えた人しか、当たり前の生活に近づけないのだとしたら悲しいことです。

生きていれば、誰もがいつかは必ず、病気になります。心身が不自由になります。治らない病気や重い障害を持っていても、命や暮らしが脅かされず生きられる世の中は、誰にもいつかは必ず訪れる自分が弱った状況に置かれたとき、人を生きやすくすると思います。

障害者が何か福祉の支援を求めるときには、どうしても社会に負担や迷惑をかけて申し訳ないという負い目、ためらいが生まれやすいものです。しかし、生きるために、人間らしく生活するために普通のことを望んでいるのです。必要な介護やバリアの解消は、顔を上げて堂々と求めていいのです。
それはただ自分の身を生かすだけには留まりません。家族、その人に関わるすべての人、これから支援を受ける後に続く人たちをも生きやすくすることにも繋がっていきます。それは、人間としての誇りを支える力、生きるために手助けを求める力の拠り所になるのではないでしょうか。

私も、あなたも、人の助けを借りたり、人を手助けしたりして、自分の命と人生を生きています。誰もが、誰かの暮らしを支える伴走者になれる。そう思えば、私も、あなたにも、社会を生きやすくするために、できることがあるはずです。

ご静聴ありがとうございました。

●2018.6.2「MEDプレゼン2018@仙台」でのスピーチ。※体調不良のためビデオ動画での登壇になりました。 http://medpresen.com/medpresen2018/2018sendai/

ABOUT US
岩崎航詩人
1976年1月、仙台に生まれる。本名は岩崎稔。 3歳で筋ジストロフィーを発症する。17歳の時、将来に絶望して死を考えたが、病をふくめてのありのままの姿で自分の人生を生きようと思いを定める。現在は胃瘻からの経管栄養と人工呼吸器を使い、在宅医療や介護のサポートを得て自宅で暮らす。 25歳から詩作を始める。2004年から五行詩を書く。06年に『五行歌集 青の航』を自費出版する。13年7月に詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)を刊行。15年11月にエッセイ集『日付の大きいカレンダー』(ナナロク社)を刊行。16年4月「ETV特集」で創作の日々がドキュメンタリー番組「生き抜くという旗印 詩人・岩崎航の日々」として全国放送される。同年7月から読売新聞「ヨミドクター」に自身の自立生活実現への挑戦を綴ったエッセイ『岩崎航の航海日誌』(全10回)として連載。以降、病と生きる障害当事者として社会への発信を続けている。18年6月に岩崎健一と共著の画詩集『いのちの花、希望のうた』(ナナロク社)を刊行。20年10月『病と障害と、傍らにあった本。』(里山社)に、同年11月『「死にたい」「消えたい」と思ったことがあるあなたへ』(河出書房新社)にエッセイを寄稿。21年6月15日に詩集『震えたのは』(ナナロク社)を刊行。25年7月に介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット(介護保障ネット)の共同代表に就任。