2021.01.25 Monday
『暮しの手帖』2021年2-3月号に随筆を寄稿しました
●『暮しの手帖』 https://www.kurashi-no-techo.co.jp/
岩崎航 OFFICIAL WEB
〜 ベッド上から五行詩に綴る 〜
2021.01.25 Monday
2018.06.11 Monday
2018.06.10 Sunday
2018.04.15 Sunday
2017.11.04 Saturday
「みやぎアピール大行動2017」に、仙台に暮らす障害者の一人として、当事者アピールをさせていただきます。岩崎稔と申します。
私は全身の筋肉が正常に作られず体が動かせなくなる難病「筋ジストロフィー」を抱えながら生きています。常に人工呼吸器を使って、食事は胃瘻から栄養を入れて、24時間、生活動作の全てに介助を得ながら自宅で暮らしています。岩崎航というペンネームで詩やエッセイなどの著述を仕事にしています。
昨年の9月、私は地域での自立した生活を実現するために、仙台市の青葉区に24時間・重度訪問介護の支給を求める申請をしました。しかし、当初は認められませんでした。
ほぼ全身が動かず常に人工呼吸器を使っていて、同居両親は70代半ば。高齢による衰えと、持病の悪化で痛みが出ていて、介助ができない状況のもと、常に動ける介助者が側にいなければ、命の危険すらありました。 それにも関わらず、私のように気管切開ではなく鼻マスク式の人工呼吸器を使い、痰の吸引が多くない人に24時間介護支給をした前例はないため、対象外だというのです。
区からは、他にも「市が独自に解釈する重度訪問介護における“見守り”や、“家電製品の操作”介助の考え方と合わない」など、さまざまに「できない理由」を示されましたが、いずれも共通するのは、目の前にいる障害者の生活実態の理解が不十分であることを感じさせました。
けっして、言葉として言われはしませんし、悪意は全くないのだとしても、結果的には「あなたは、生きていなくてもよい」と、障害者が介助を得ながら生活するのを拒んでいるのと同じです。
昨年の7月に起こった相模原での障害者殺傷事件は、障害者が社会の中で生きていくことそのものを否定される恐ろしい事件でした。
私にとってこの事件は、難病と付き合いながら、ヘルパー介助を得て自分の暮らしを作ろうと動き出していたなか、「そこまでして生きていられては、社会の迷惑」だと、面と向かって、冷酷な悪意を突きつけられるできごとで、暗澹たる気持ちに覆われました。
犯行者は、直接的な暴力によって障害者の命を奪いましたが、足元の現実として世の中には、今回の私のケースにも現れているように、社会の構造的な「見えない暴力」で、重い障害を持つ者の命や生活がおびやかされている状況が、いたるところに生じています。
障害者が何か福祉の支援を求めるときには、どうしても社会に負担や迷惑をかけて申し訳ないという負い目、ためらいが生まれやすいものです。そんななかで、「生きて、生活するために必要な」当然に求められた介護支給の申請を拒む、ということの意味を行政の現場の皆さんには、どうかご自分の身に置き換えて考えてほしいと思います。
介護保障を支援する弁護士に教わった、障害者が介護支給量を行政に求め交渉するに際しての、基本的な考え方があります。
それは「障害者の介護支給にあたって、市町村が裁量で設けている支給決定の基準は、あくまで目安にしかすぎず、目の前に介護を必要とする障害者がいて申請を受けたのなら、本人、家族、支援者らから細かく聴き取りをする調査を行って、もし基準では間に合わないのであれば、非定型の審査会にかけて、個別具体的に支給量が決まる」という本来の筋道を、見失わないということです。
この考え方は、単に介護保障の法律家からの正確な見解というだけに留まらない力があると感じました。
・「市町村が目安として設けた線引きに関わらず、あなたは介護の必要な現実をありのまましっかりと説明していけばいいんだよ」
・「生きるために、人間らしく生活するために、必要な介護は、顔を上げて堂々と求めていいんだよ」
と、人間としての誇りを支える力、生きるために手助けを求める力をもたらしてくれたと感じています。
その後、当事者と家族の側に寄り添った相談支援員のはたらき、主治医による丹念な病状説明や意見、障害者の介護保障に取り組む弁護士らの支援もあり、あきらめずに交渉を重ねた結果、仙台市の理解を得られ、今年の3月に24時間介護支給の決定を得ることができました。
全国では重度障害者が「障害者総合支援法」による公的介護保障制度によって、医療的なケアの有無に関わらず、必要なだけのヘルパー介助時間数を得て、自ら望む生活を実現している事例があります。制度としてできないのではなく、自分の町では、まだ「できないことにしている」市町村が多いだけなのです。
今回のことは、私だけの問題ではないと感じています。
身近にも、脳性まひで全身性障害のある友人が、知り合いの知的障害のある青年のお母さんが、介護のことで困っているのを知っています。
生きるために必要な介護を求めることでさえも、市町村の現状把握の不足、無理解から支給認定がされず、命や健康の危険すら感じながら苦しい生活を余儀なくされている障害者が全国にたくさんいます。いつ自分が倒れてもおかしくない限界を超えた介護を強いられている家族もたくさんいます。
生きていれば、誰もがいつかは必ず、病気になります。心身が不自由になります。
治らない病気や重い障害を持っていても、命や暮らしが脅かされず生きられる世の中は、誰にもいつかは必ず訪れる自分が弱った状況に置かれたとき、人を生きやすくすると思います。
どこに住んでいても、どんな病気や障害があっても、全身不自由な体になった人でも、うつむかないで顔を上げて生きられるように。必要な介護支給を得られるようにしていきたいと切に願います。
相模原事件の犯行者は、「障害者は不幸しか作れない、社会のためにいなくなったほうがよい」という考えを持ちました。また世間には、その考えに近い考えを持つ人も少なからずいることが分かりました。
このような考えかたに対抗し、生きていてもしかたないという貧しい見方を乗り越えていくには、障害者の一人一人が、いたるところ、社会の真っただ中で「ここにぼくも、わたしも生きている」と、生活している姿を示し続けるほかありません。
多くの人と出会い、つながり、自分の命と人生をあきらめずに生きることは、障害を持って生きる私たちの役割ではないでしょうか。人に助けてもらうばかりで肩身が狭いと負い目に思うことはありません。自分の住むこの町で、堂々と顔を上げて生きていきましょう。
2017.07.26 Wednesday
2016.08.20 Saturday
「津久井やまゆり園」で亡くなった方たちを追悼する集会
2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所していた19名の方々がその尊い命を失うという、痛ましい事件が起きました。犠牲となった19名の方々に心より哀悼の意を表するとともに、被害にあわれた方々の順調な回復をお祈りするため、追悼集会を行いました。
時計の針を巻き戻すことなく、すべての人のいのちと尊厳が守られる未来を目指して
メッセージをわかちあおう(*当事者研究Lab.─2016年8月6日追悼集会─より引用)
追悼集会にメッセージを寄せました。
2016.06.19 Sunday
2016.04.22 Friday
私は三歳で進行性筋ジストロフィーを発症し、人工呼吸器と胃ろうからの経管栄養で生活すべてに介助を受けながら生きています。これまでには将来を悲観して自ら命を絶とうとしたり、もう夢も希望もないと家族にもらすこともありました。
どうしようもなく打ちのめされると、前向きにものを考える手前のところでバッタリ倒れて身動きできない。ただうずくまって嵐の過ぎ去るのを待つしかない。そんな日々を生きたことは、私にとって詩を書く糧になりました。病とともに三七年を生きていますが、その困難さを“乗り越えた”ことはありません。私の中では、乗り越えるというのは完了ではなくて、終わりのない旅です。一つの峠を歩いて、また一つの峠を歩き続けて生きていくことそのものではないかと感じています。
最近、体の不自由さが原因で耐えがたいできごとがあって、精神の均衡を保てなくなった時がありました。辛くて苦しくて涙が止まらないのです。このままこの気持ちを押し殺したら、自分の何かが壊れると思いました。周りから「どうしたの?」と声をかけられなくても、自分の中から勇気を取りだして、誰かに助けを呼ばなくてはならない局面が人生には度々あるような気がします。
「助けて!」
周囲への一切の慮りをかなぐり捨て、親しい人に初めてSOSのメールを送りました。すぐに電話がかかってきました。張り裂けそうなそのままの気持ちを話しながら、電話の先で一心に話を聴いて無条件に苦しみの側にいようとする人の思いやりを感じました。
話したからといって、苦しみを生む状況がすぐに変わりはしないですが、自分で自分を支えるために着けていた鎧を外すだけで、重苦しかった心が楽になりました。たとえ立場や境遇が異なり、距離が離れていても、人は他者の苦しみの傍らに来て座り、支えになることができるのだと思います。私も誰かにとってのそんな存在になれたらと思います。
もし「辛い」と言ったら受けとめてくれるかもしれない人の顔が何人も浮かびます。それでも、忙しくて迷惑じゃないかな……。分かってもらえないんじゃないかな……。そんな思いに心を縛られていると、のどもとまで出かかった言葉を飲み込んでしまい声を出せなくなっていました。なにかというと必要以上に自分の気持ちを折りたたみ、辛くても平気な顔をしてその場をやり過ごすことが多かったですが、これからは変えていくつもりです。自分の心を守り、生きるためのSOSを発することに一切の遠慮はいらない。苦しいときは苦しいと伝えて、人に助けを求めていいんだ。そう思えたことは私にとって、静かな革命でした。
どんな人にも、これからも生きている限り何度も越えていくだろう夜の峠があると思います。私は「助けて!」という言葉をいつでもためらいなく使う勇気を持って、この峠を力強く歩み通そうと思います。
2016.03.05 Saturday